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純三河白名倉砥石のアルバム

著者 岩崎航介 「刃物の見方」に使われた原画もあります。名倉砥石を掘り出していた頃の写真などを掲載

また、書籍などに掲載されていないレアな写真なども掲載

名倉砥石山坑道入り口

山腹に名倉層が出てきている所が、いたるところあったそうですが、そのような所は風化が進んでおり使い物にはならなかったそうです。坑道入り口は山腹にいくつもあり中は蜂の巣状だったとか。

名倉砥石山坑道入り口

名倉砥石山坑道内

昔は刀剣用にコマ(細)名倉を主に産出していたため、他の層の名倉は外には出さず坑道の支えになっていたとか。そのため他の層の名倉は、コマ(細)が少なくなってから外に出されるようになり比較的長く産出されていました、画像でもその様子が伺えます

名倉砥石山坑道内

名倉砥石の現地調査集合写真

  1. 坂本操氏は、岩崎航介氏と共に三条市にあった研究団体、一九会のメンバー
  2. 浅野長幸氏は名倉の研究では随一と「刃物の見方」の一節にある方、東三河の理容講師をなさっておられた
  3. 岩崎航介氏は「刃物の見方」の著者 航介氏については、言うまでもなく日本刀の科学的研究、玉鋼の研究などで有名。剃刀の製作も当時から取り組んでおられ、名倉、理容業界とのかかわりも深い
  4. 岩崎重義氏は岩崎航介氏の息子にあたられる、重義氏は現在世界が認める刃物鍛冶で、現、三条製作所の代表者。
名倉砥石の現地調査集合写真

著者 岩崎航介「刃物の見方」

この本の中に名倉砥石の調査報告が記載されている、この文面のコピーを削ろう会の松田豊先生にいただき、名倉の資料として持っております。

名倉砥石の運び出し

背負子を使っての名倉砥石の運び出し、名倉砥石の運搬は背負子を使っていたそうだ。写真からもわかるように相当量の名倉を背負っての運び出しになる。そのため、ある程度の加工を坑道そばの作業場で行っていた。

名倉砥石の運び出し

海抜650メートルの所に坑道入り口があったそうで、けっこうな距離を歩いたことが伺える、雨上がりや、寒い季節は危険な運び出しになります。

後ろ姿

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